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対峙

数年前に京都造形芸術大学の季節講座で「ポートレート写真」のコースを受講したことがありました。

写真のテクニックは難しそうだけれど、表現として、芸術として、どんな議論がなされているんだろう? という好奇心があったこと、

それに、カメラマンの方々が幼少の頃から身近にいたことで、馴染み深く自分の居心地の良い世界である写真を

言葉でも体験したかったという理由もあったのかなと思います。

その時はわりと気軽に参加してしまった自分。

クラスのほとんどの方は本格的にカメラを学んでいる方ばかりで、「自分がここにいていいのだろうか」と不安になる瞬間もありました。 想像はしていたものの、その奥深さに気が遠くなってもいました。

それでも楽しく過ごせたのは、そんな私を、クラスのグループのみなさんが親切に受け入れてくださったから。

コースが終わってからも、素敵な写真をアップされていたり、写真を学び続けていらっしゃる様子を見るのが楽しみになっています。

先日、同じクラスでお世話になった榎本さんの写真展に行ってきました。

タイトルは「20050810」

この数字の並びが意味することを想像するだけで、心が止まるような気持ちになります。

たとえ榎本さんの事情を知らなかったとしても、すごく重要な数字だということがわかる。

「20050810」

榎本さんのお子さんの命日。

写真は遺品とお子さんが通われていた保育所の風景。

個展が開催されてから、訪れた方の講評を読んだり公開されているお写真を拝見して、

間近で見るには、今度は授業を受けに行った時のように気軽には行けない。

そう思っていました。

作品をどう受け止めるかは個人の自由だとは思いながらも、

私が見てきちんと受け止められるのだろうか、

私が行っていいんだろうか、

なんていうことも考えてしまっていました。

でも、

どうしても行かないといけないと思った。

それは、榎本さんがこの作品を展示するまでに、とてもとても想像してもし切れない自己対峙をされたこと、

「作品」にすることに対しての大きな「意志」があることを感じ、その作品に触れてみたかったから。

そして、榎本さんに久しぶりにお会いしたかったから。

専門家の方の講評は、自分の体感としてはまだ理解できなかったけれど、

どれだけ、「見たくないもの、無かったことにしたい事」と向き合うことを

自分は避けているのだろうかと思わされました。

何百回もシャッターを切って作品を作られたそうです。

被写体は動きません。

でも「これ」というものを探すために撮影を重ねる。

心は被写体とは真逆で、グルグル動いて止まらなかったのではないかと想像します。

心の動きとシャッターのタイミングが本当に一致するところを探されていたのでしょうか。

遺品の実物の小さな靴も展示されていました。

自分はシャッターを切れるだろうか。

シャッターを切るということは、細部まで見るとういこと。

目を反らしたくなるかもしれない。

その靴の写真は、大きく引き伸ばされていて、

靴の青が実物よりも鮮やかな色でした。

命が続いていく意味、

過去からの解放と未来を示唆する色に私には見えました。

榎本さんの作品についてのコメントです。

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これらの写真は、息子の事故から11年を経て それでも処分ができなかった 「遺品」と亡くなった保育所を撮影したものです。 これは私の「喪失」への対峙でありながら 「遺品」の私からの解放でもあり 「遺品」からの私の残りの人生の解放でもあります。

榎本八千代

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YOMIURI ONLINEでも紹介されています。

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